西晋末期の中国 <今日のお勉強>

後漢末期〜三国時代という混乱した中国を再統一した西晋王朝ですが、2代目の恵帝の時に早くも瓦解を迎えます。その原因となったのが八王の乱永嘉の乱の勃発です。

前者は司馬一族の権力闘争、後者はそれに乗じた五胡と言われる異民族の侵攻と説明されます。

 

八王の乱

後漢外戚政治と宦官によって衰退の道を辿りましたが、西晋もまた外戚によってその滅亡の契機が作られました。暗愚な恵帝を補佐する形で皇太后の一族である楊氏が専制を行いますが、これに反発した恵帝の皇后賈氏は皇族の汝南王亮と楚王瑋の力を借りこれを排除します。ここまではいいのですが、賈氏はこの二王さらには皇太子までも殺害してしまったために朝野は反発。趙王倫が賈氏を討ち自ら帝位に就いてしまうという事態に発展します。しかしこうなると、誰もが皇帝の座を狙うのは明白であり、案の定倫は殺害され三百六年に懐帝が東海王越に擁立されるまで十七年にわたり中原は戦禍に覆われることになります。

この戦禍は恵帝が暗愚であったために引き起こされたと言われがちですが、実は皇帝候補には恵帝の他に武帝司馬炎の弟である司馬攸という人物がいたのです。彼は、三国志で有名な司馬懿にも将来を期待されるほどの優秀な人物で人々は司馬炎の次を司馬攸が担うことを期待していました。しかし司馬炎自身は弟である司馬攸のことをよく思っておらず、結局彼を中央から追放してしまいます。このことは三国魏の文帝曹丕が七歩詩で有名な弟の曹植の才能を恐れた話と似たものがあります。こうして司馬炎はせっかく自分で開いた王朝を繁栄させる道を自ら閉じてしまったのです。

司馬懿の息子であり、西晋建国のための礎を築いた司馬師司馬昭の兄弟が互いに協力したにもかかわらず、司馬炎・司馬攸の兄弟は互いに反目しあったという話は皇帝という唯一無二の座が持つ魔力のせいなのかもしれません。

 

永嘉の乱

東海王越の死後、現在の太原市(天津のやや西)にまで勢力を拡大していた匈奴の長劉聡西晋の首都の洛陽を攻め略奪の限りを尽くします。この時に懐帝も捕虜にされ(後に殺害される)西晋は実質として滅亡します。長きにわたる分裂の時代を終わらせた西晋は四十六年しか保たなかったのです。

ここで疑問がでできます。「匈奴って草原の遊牧民じゃないの?なんで天津のあたりにいるの?」という感じです。実は魏の時代から匈奴は徐々に中国の内地に流入してきていて、漢人の下で農耕生活をしている者が増えていたのです。他の異民族も似たような感じで中国内地にあり、その勢力は朝廷も危惧していたほどです。例えば、西晋の郭欽という人物は「今は福寿しているが百年後に戦乱が起これば、匈奴の騎馬隊は華北の重要拠点をあっという間に制圧してしまうでしょう。そうならないように異民族は全て中国の内地から移すべきです」と上奏しています。この意見は採用されなかったのですが、百年を待たずにこの見解は最悪の形で実現してしまいます。

 

○まとめ

およそ百年にわたる戦乱の時代を終わらせた西晋も建国間もなく戦乱へと突っ込んでいくわけですが民衆はたまったものじゃありません。やっと平和になったと思ったらまた戦争…

しかしこの時代を次の隋唐時代の起爆剤と見ることもできます。というのも隋唐の皇族も永嘉の乱により中国で勢力を拡大した五胡の系譜を引いているからです。

 

次は永嘉の乱の主役である五胡についての内容を予定しています。