こんばんは。夕です。

最近主にネットで議論を巻き起こしている「親ガチャ」と言う言葉について、思うところを書いていこうと思います。

 

まず私自身としては「親ガチャ」と言う言葉を使うのには反対です。親に多少の不満があっても「親ガチャ」という安直かつ失礼な言い方をするべきでないと思っています。

 

私の周りでは「文化資本」という言葉とセットで使われることが多く、その中での「親ガチャ」の当たりは

①経済力がある

②文化的素養がある

③学歴が高い

といった辺りを兼ね備えた親となっているように見られます。

 

まず①。経済力はないよりある方が良いことは間違い無いです。なんだかんだ言っても世の中お金で解決する部分がかなり大きいと私も感じています。

しかしここでの経済力があるは主に「私立の学校に通えるか否か」で議論されます。それ以外の部分にフォーカスを当てられることはあまりなく(私の周り全員の共通項が学生である。ということだけなので当たり前なのかもしれませんが)、例えば子供を私立の学校に行かせるためにその他の部分で節約をしていると言う可能性は議論から漏れる傾向にあるように感じます。つまり私立の学校に通えている学生は必然的に生活水準も高いという前提ができてしまっているのです。もちろんその可能性も大いにあります。しかしみんながみんなというわけではありません。

 

次に②。文化的素養があるというのは親が子供を幼少期から美術館やら博物館に連れていき、文化的な素養を身に付けさせようとすることです。連れて行こうと思うくらいなので、当然親も文化へそれなりの教養を持っているのでしょう。これに関しては私は親と美術館などに行ったことがないので分かりませんが、決して幼少期にその機会がなかったことで文化的な素養が身につかなくなるということはないと思います。むしろ以降の人生でそのような機会に出会うことは自分が選択すれば良いのであり、そのハードルはさして高くないと思います。

 

最後に③。これは仕方がないことですね。少しづつ変わっているとはいえ、いまだに日本は学歴社会の域を抜け出せていないように思えます。学歴が低いと平均収入も低いというデータもあるみたいです。既存の枠組みのことをぐちぐち言っても仕方がないので、あまり言うつもりはありませんが学歴というおよそ20年前後分の経験で人生の選択肢が狭まるのは良くないことだと思います。特に私たちの世代は大学進学率が5割を切っている世代です。いつまでも学歴に拘泥していては優秀な人材を取り逃してしまうことが増えないかと心配です。

 

だらだら書いてきましたが、これはあくまで私の周りにいる大学生の認識に対して思っていることなので、話題となっている「親ガチャ」そのものへの意見ではないです。

 

世間で言う「親ガチャ」に対して。

正直に言うと甘えなのかなと思っています。

もちろん家庭の経済的事情で進学ができない、親が過剰に干渉してくる、虐待を受けているなどの方もいます。その一方で些細な不満、例えば「別段暮らしに不自由はないけど友達と比べたときに惨めさを感じる」「自分の親は中堅大出だが知り合いの親は有名国立大出らしい」といった身近な人との比較で発している人も多くいます。どの家庭も大なり小なりの問題は抱えています。

それでも親は曲がりなりにも親として私たち子供のことを育ててきてくれたのです。それに対して「子供は親を選べない」だの「ゲームではリセマラができるのに遺伝はリセマラ」できないと不平を口にするのはあまりにも失礼だと思いますし、自分が親になったときに同じことを言われたら非常に傷つくであろうことは想像にたやすいです。

スタートラインの時点で差があることは否定しません。しかし人類の寿命が80を超える中で、たった20年前後の成果で人生を嘆き親を呪うのはあまりにも自分の修養がたりてないと思うのです。今はまだ芽が出てなくてももしかしたら中年くらいで開花するかもしれません。

大事なことはいつでも前を見据えることだと思います。後ろだけを見、前から目をそらし愚痴を吐き続ける人には成功する未来はやってきません。生まれ持った環境・素質は変えれません。ならばこそそれを受け入れ、未来にむけて努力を積んでいくべきなのではないでしょうか。

私はそう思って生きています。